あれは、去年の秋のことだ。

昼休み、給湯室でコーヒーを入れていたとき、後輩の田中が隣に来た。田中は入社3年目の、悪意のない、ただ口が軽いだけの男だ。

「薄毛丸さん、マープやってるんですか?」

コーヒーカップを持つ手が、一瞬止まった。

「え?」と返すのが精一杯だった。

「いや、なんか最近、頭頂部が変わったなって思って。うちの兄もやってるんですよ、アートネイチャーの増毛。だから何となくわかって」

田中の声は小さかった。でも給湯室には、もう一人いた。

振り返ると、同じ部署の女性の先輩、鈴木さんが、目を伏せてお茶を入れていた。聞こえていた。絶対に聞こえていた。

「あ、いや、違うよ」と笑って否定した。田中は「あ、そうですか、すみません」と引いた。

でも、その日の午後、僕は仕事が全く手につかなかった。

「バレた」という事実ではなく、「バレているかもしれない、でも確認できない」という状態が、想像以上にきつかった。鈴木さんが他の誰かに話すかもしれない。来週、みんなの目線が変わるかもしれない。

帰りの電車の中で、スマホの画面を見つめながら、ひとつのことを決めた。

もう、ここにいる理由はない。

マープを続けながら今の職場に居続けることには、限界がある。「知っている人たちの中」にいる限り、僕のコンプレックスは消えない。

環境を変えよう。本当に、本気で。

転職して、引っ越す。新天地で、誰も僕の過去を知らない場所で、最初からやり直す。

第1話で書いた、あの結論に、ようやく本気でたどり着いた夜だった。