その夜、僕はいつものように部屋に帰って、カツラを外した。
洗面所の鏡に映る、地肌の見えた自分の頭。見慣れた光景のはずだった。
でも、その日は違った。
ナデシコさんの「お疲れ様でした!」を思い出しながら鏡を見ていたら、急に、どうしようもなく、情けない気持ちになった。
もし——もし彼女と仲良くなれたとして。もし、付き合うことになったとして。この頭のことを、いつ、どうやって明かすんだ。
いや、その前に、付き合えるわけがない。28歳で、元自衛官で、あんなに明るくて、人に好かれる人だ。僕みたいな、カツラを隠して生きている30代の男が、何を期待しているんだ。
でも、と思う。
僕はもう30代だ。このままでいいのか。結婚は。家族は。「いつか」と先延ばしにしてきたことが、急に、現実の重さを持って迫ってきた。結婚しておかないと、ヤバくないか——そんな焦りが、初めてリアルに胸に刺さった。
薄毛をきっかけに転職して、引っ越して、カツラで新しい人生を始めた。それは間違いじゃなかった。鏡を見るのが怖くなくなったし、自信も少し戻った。
でも、カツラには「言えない」という宿題が、ずっと残っている。今まではそれでよかった。言う必要のある相手が、いなかったから。
今は、違う。
言いたくない相手が、できてしまった。ナデシコさんにだけは、このことを、絶対に知られたくない。
カツラを箱に戻しながら、僕は、ずっと避けてきた問いに、初めて正面から向き合っていた。
——このままのやり方で、いいんだろうか。